私は、「小さな親切大きなお世話」精神で今まで生きてきた。誰かに心配されたり、優しさを見せられたりすると、放っておいて、とかっこつけて背を向けて、それが私よ、と突っぱねて。
自分から誰かと関わることを避け、人々の人間ドラマを傷つかない微妙な位置から傍観してた。傷つくのが怖いから、傷つく前に「はい、さようなら」と簡単に糸を切り、私の世界から人を排除していった。
私は常に強くみられたくて、人と違うと思われたかった。
流産を経験したとき、まさか自分がこんなに悲しく辛い想いをするなんて、信じられず途方にくれた。途方にくれた私は、人に一層冷たくすることでなんとか自分を保とうとした。
メールをくれ、電話をくれる優しい親に、友に、同僚に、私は心の中で冷たく言い放った。「あんたたちに私のつらさなんてわからない。」と。
わざと冷たい言葉を投げかけて親を泣かせ、メールを返さず友達や同僚を心配させた。
寄り添い、抱きしめようとしてくれる旦那の手さえを振りほどき、辛いのは私だけなの、とアピールした。
会社を休み続ける私を心配してメールをくれる同僚たちを、「うざいんだけど」と大きなため息をついて無視し続けた。
小さな親切を大きなお世話と感じるのは、受け取る側の心の狭さだ。
2週間ぶりに仕事復帰をしたとき、シンガポール人の同僚たちがランチに行こう、と何度も誘ってくれたのさえも私は断った。噂話のネタにされるだけじゃん、と思いながら。
私にランチを断られ続けた同僚たちが、何日か後に私の机に「燕の巣(バードネスト)」を渡しに来た。体にいいんだよ、これを食べて元気をだしてね、と。中国文化で、美容効果、免疫力をあげるのに親しまれている高級食材だ。
「ほんとうはね、漢方を処方してあげたくて、漢方名人のところに行ったの。でもね、本人がこないと漢方は処方してあげれない、と言われて、だからこれを代わりに食べてね。」と。
「本当は送りたかったんだけど。持って帰るの重いと思って。」と遠慮がちな同僚から差し出された燕の巣の箱。
その何日か前、彼らが私の家の住所を教えてくれというメールをしてきたが、私はそれも無視していたのだ。「なんで家の住所なんて教えなきゃいけないんだ。」とうんざりした気分で。
私より一回り以上も若い同僚たちが、私のために漢方を処方しに行った。流産したかわいそうな同僚のため、ではなくて、仲のよかった同僚のために。
メールを無視し続けられても懲りずに、ただ元気になってほしいと願って思ってくれたんだ。
私は間違っていた。その時に気づいた。気づかないといけなかった。
小さな親切は、大きな優しさだ。
世界はこんなにも優しさと愛で溢れているのに。
今まで、傷つくのを恐れて人を拒み続けた私の、完敗だ。
もう、人の心の奥の奥を探るのなんてやめたやめた。
帰って旦那に、私の気持ちと、同僚からの優しさの話をすると、泣いて喜んでくれた。心を開くから分かり合えることがある。
はじめて食べた「燕の巣(バードネスト)」は、淡泊な味で正直そこまでおいしいものではなかったけれど、ささくれだった私の心に染みこんでいった。
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