北海道の、日本海側にたたずむ小さな街、私の故郷。
18歳まで住んでいたから、もう故郷を出てからの日々のほうが長いんだ。
ある年は東京から、ある年はカナダから、ある年はアメリカから、そして今はシンガポールから、この街に何度も向かう。
地の果てに向かうような思いで、千歳空港からも車で3時間かかるその街に、両親と、数年前まで生きてたじいちゃんとばあちゃんに会うために。
雪のない季節は、それなりに暇もつぶせたのだが、今回極寒の2月に、2歳児と2人でシンガポールから一時帰国をして、何度も複雑な感情に襲われた。
私が子供の頃4万人いた人口は、ついに2万人をきった街。
閉鎖された、娯楽もなにもない街。ゴーストタウン化された商店街で、ちらほらと年寄りだけが歩いてる。
ずっとこの街を出たいと思いながら過ごした10代。
ジャニーズにはまることもなく、同級生との色恋沙汰にも興味がなく、気がつけば「私はこの人たちは違うんだ、いずれこの街をでてやるんだ。」という訳の分からないプライドだけでなんとか高校までを卒業した気がする。
自分に子供ができて、田舎に帰っても、落ち着くどころか数日で逃げ出したくなるような、そんな感覚。
同時に、この地で私と弟を育てた父と母を想った。
黙っていたら脳みそが溶けてしまいそうな、行くところもない、特に冬。私たちはスキーの練習をし、毎週大会に参加した。
観光地でもない街の、寒すぎる夏。私たちは水泳を習い、弟は野球を、私はテニスをした。
そのスポーツごとにコミュニティーがあって、友達や、家族同士の付き合いが楽しかった。
関わる大人たちは、みんな不揃いでクセが強かったけど、優しかった。今思うと、みんなボランティアで、子供たちの送り迎えをし、地方の大会に連れて行ってくれ、合宿の引率をしてくれてたんだろう。
両親が、商売をしながらこの田舎町で、必死で私たちを育てようとしたことがやっとわかった。
なんの躊躇もせずに、出たいと言えば、可能性を信じて私たちを若い時に街から出してくれた両親の覚悟も。
大好きなじいちゃんとばあちゃんは死んで、それを機に慕ってる親戚のおじさんとおばさんは東京に移住した。
近い未来に、私の両親もどこか違うところに住むのかもしれない。
そうなっても、やっぱり故郷へ対しての未練は微塵もないけれど。
じいちゃんの家へ続く道を、さびれたテニスコートを、探検した小学校の裏山を、笑えるくらいまずいグラタンをだすレストランを、夕日の沈む真っ赤な海のことを。
私は忘れないから。
だから私にとって故郷とは、守られながら過ごした日々の優しさの思い出だ。
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